中萩地区の魅力

中萩の歴史

「新居浜市所蔵」

『中萩村の誕生と発展』

「中萩」という地名は明治22年に中村・萩生村・大永山村の3村が合併して誕生した中萩村に始まります。村名は中村の「中」と萩生の「萩」を組み合わせ、村役場は東川西岸の、国道より南側(現在の中萩公民館の場所)に決められました。小学校は明治26年の東川東岸(現在の中萩小学校玄関前広場の場所)に建設されました。
住友鉄道土橋駅開設(明治26年)、新居郡立新居農学校の設立(明治34年)、国鉄中萩駅の開設(大正10年)など公共の施設も次第に充実し、広瀬家が明治7年から始めた茶の栽培は、明治16年製茶工場と居宅を上原に移し製茶業として大きく発展、岸ノ下に明治21年設立された飯尾製糸場とともに明治・大正期の村の中心産業となりました。
明治から昭和初期に至る時代の流れの中で発展する中萩村と、村づくりにかけた人々の思いがこの時期の史料から非常によくわかります。 簡単な紹介ですが、これを機に中萩の歴史について多くの方々に興味を持っていただければ幸いに思います。
(中萩古文書を読む会 曽我部 多見子)

中萩に由来のある人物

広瀬 宰平(ひろせ さいへい)

1828(文政11)年4月14日滋賀県に生まれ、9歳の時に叔父とともに別子銅山に来る。
38歳の頃、別子銅山の支配人となりその後も銅山の経営に尽力を注ぐ。また、貿易のための港を完成させ、製糸場の開設、植林事業にも乗り出し、別子鉱山鉄道建設の着手など手広く事業を進めていき、住友の幅を拡張していった。
その成果もあり「広瀬宰平なくして今日の住友はない」と言われるようになった。

十河 信二(そごう しんじ)

1884(明治17)年4月14日新居郡中村に生まれる。(生家跡の一部は、現在 新居浜上部のぞみ保育園になっている)
現・西条高校に進学し、中萩から往復約20㎞を毎日わらじか草履を履き通学したという逸話がある。
「新幹線の父」とも呼ばれ、第4代国鉄総裁を務めた際に東海道新幹線の実現に尽力した。
座右の銘「有法子(ユーファーズ)」とは中国で盛んに用いられた言葉で、方法は必ずあるとの意。

真鍋 博(まなべ ひろし)

1932(昭和7)年7月3日別子山村に生まれ、3歳の時に中萩村に転居。愛媛県立新居浜西高等学校~多摩美術大学油絵科を卒業後、美術科教諭を経て大学院に進学しイラストレーターの道を歩む。
小説の挿絵を担当することが多く、特に星新一作品の挿絵の多くを担当し高い評価を受けた。
中萩校区にある上部児童センターの外壁デザインは真鍋作品のひとつである。